【正論】上坂冬子 漁船隠蔽また無視された外務省

≪国営企業へ譲渡の驚き≫

 電話を受けたとき私は、「ヒエッ」
 と妙な声をあげたのを覚えている。

 日本のカニかご漁船が北海道・根室のノサップ岬から2キロ足らずの海上で、国境線を越えたからといってロシアの警備艇に撃たれ、35歳の漁師が殺害されたのはほぼ2年前のことだ。

 4人の乗員のうち残る3人は国後島に拘留され船長は48日後に、すべてこちらが悪かったと認める書類にサインを強制されて、船は没収されたまま身一つで釈放されている。

 私としては当然、のちに漁船は日本に返還されるものと思い込んでいた。没収された漁船には計器がついており、国境線を越えたかどうかの一つの根拠を示す重要な役を担っていたからだ。

 ところが産経新聞外信部からの電話によれば、その漁船がすでにロシアの国営企業に譲渡されていたというのである(6月24日付)。

 「ヒエッ」
 と声をあげるのは当然ではないか。

 私はとっさに証拠隠滅を図ってのことだろうと判断した。証拠の計器は廃棄されてしまったにちがいない。日本で新品を買えば4000万円ほどだというその船体は、いま国後島を離れて樺太の港に係留されている。

 この事件について私は『これでは愛国心が持てない』(文春新書)という一冊にまとめたが、いまこそこの思いを新たにした。

≪「証拠隠滅」が狙いか≫

 そもそもロシアは日本の漁船が国境線を越えたというが、日露両国の間でまだ国境線は決まっていない。日本としては話し合いによって国境線を決め、ロシアとの平和条約を結ぶべく交渉中だ。35歳の漁師は確たる証拠もないまま殺害されたことになる。しかもロシアが一方的に主張する国境線を楯にとって。

 新聞によれば、日本政府は物的証拠として漁船の引き渡しを求め続けてきたというのだが、計器が外されていれば証拠としての価値などあるはずもない。

 いったい、ロシアという国は一切の国際法にわれ関せずという国なのか、それとも日本だけがこれほどまでに無視されているのか。というよりも日本の外交能力は、ここまで無視されるほど弱体なのであろうか。

 ついでにいうなら船長は罪を認めたのだから罰金を、ということで根室に着いてから日本円で214万円を支払うことを条件として釈放された。さらに余計な一言をつけ加えるなら、余裕を見込んで250万円用意した罰金をロシア側はそのまま受け取って、釣り銭がなかったと船長はのべている。いずれにしろ、漁船譲渡の話はロシア側から踏んだり蹴ったりの扱いを受けて無抵抗な日本の姿をさらに浮かび上がらせたというほかない。百歩ゆずってロシアが勝手に決めた国境線なるものを日本の漁師が無断で越えたとしても、だからといって殺害されるいわれはないのだ。

 現に昨年4月、ロシアの漁船がゴムボートでロシア側のいう国境線を越えてノサップ岬までビールを買いにきた事件があった。“国境線”を越えたという点では条件は同じはずだが、日本側は特に咎めることもなくロシアの漁師を無事に帰している。

≪防衛省も監督官庁に≫

 もちろん、ロシアから殺害した漁師への謝罪金が支払われたとは報じられていない。漁師には日本の労災が下りた。日本側としては、かろうじて漁師を国境侵犯扱いせず“まとも”に労働に従事していたときに殺害されたという判断を下したことになる。

 このあいまいな国境問題に日本側はどうやってケジメをつけるつもりであろうか。また漁船の引き渡しを求めながら無視された国の尊厳を、どう取り戻すつもりか。

 ロシア側は相手国の国民を銃撃できる立場にある沿岸警備艇を用意して“国境線”を守っているのに、日本は海上保安庁(海の警察)だけでよいのであろうか。具体的な巡視は海保、交渉ごとは外務省だけで事足りるのであろうか。監督官庁として外務省のほかに防衛省が入っていないのが、国民の一人として私には不安でならない。

 洞爺湖サミットが近い。

 伝えられるところによると、メドベージェフ大統領はプーチン時代とはちがうカラーを出すべく努力中とか。

 日本としても新大統領との会談で、これまでの惰性を一新し日露外交の新時代へのきっかけとすべく、いわれもなく返還拒否の状態となっている漁船の問題を、北方領土問題とからめて徹底的に追及すべきだ。

 チャンスを逃すな。(かみさか ふゆこ=ノンフィクション作家)

20/06/26 05:07

【正論】上坂冬子 漁船隠蔽また無視された外務省

テーマ:産経新聞 - ジャンル:ニュース

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